今は花屋的な事はやっていませんが、
前に花の仕事をしていたときに時々、心が弱っている人もやってきます。
お花の力を借りたいのでしょうか、それとも私の中の陰陽に導かれたのでしょうか?
ある時に私はとっても「自分かわいそう」な人とお仕事を一緒にしていた時がありました。
何事にも引っ張られては自分を見失う。と思いつつも
一緒にいると「私だってかわいそうなのよ」と何かを取り繕ってしまう自分がいました。
そうしないと対等にお仕事ができないと思ってしまっていました。
それは私もちょっと心が疲れていたのかもしれません。
慣れない土地で自分の所在地を見つけようとしていたのかもしれません。
でも仕事には関係ありませんし、お客様にも関係ありません。
それらを吹っ切って淡々と仕事をしていると、
今度は冷たいとか、いいよねあなたはと言葉をかけてきます。
なかなかに修行のひとときですね。それらで私は罪悪感を抱えていました。
私って癒されるお花の仕事をしながら、冷たい人なのかもとかそんな類の自己嫌悪です。
Botanic Anthology
自分自身がもはやよく判らない状態ですよね。ちぐはぐな生き方をしているのかもって思ったり。
若くてそこへの経験の扱い方が判らなかったのです。
そしてその人は私からみてとても恵まれているのに自分の境遇に文句を言い、
既に当時で12年も花の仕事をやっていた私に対抗意識をもやされるので、やっかみもありました。
愛が足りなかった自分は。
そしてどんどん私もかわいそうな人になっていきました。
自分自身に呪いをかけていたのですね。自己嫌悪と罪悪感と無力感。
つい何年か前にもインスタやフェイスブックで自分かわいそうだった記事を載せたことがあります。
けっこう書いていました。
だから私をよく知らない人は若い人だと勘違いしたり、
お花の仕事は駆け出しなんだと勘違いした人も多かったかもしれません。
これも色々なインスタの人の記事を読んだり、そういうかわいそう記事、奮闘記事を読んで触発されて
そういえば私もそうだわと思って書いてしまっていました。
とても頭が悪いのですよ私のは。。
実際、本当に大変だったのですけど、今はそうじゃないし、その頃も
沢山の方がワークショップに来てくださっていて、
そのことに心から感動して嬉しくて幸せなひと時を過ごさせていただいておりました。
罰当たりめが!な事を書いていたなと思います。
外の景色に気を取られすぎて自分自身を観ていないのです。
そんだけダメな自分を育て直そうと決心しました。
作品製作に向かうことは自分自身を旅する事に繋がります。
自分自身という軸が無ければ作ることは出来ません。
なのでとてもとても丁寧にみているので作品を作る時間よりも
己と向き合いながらまだまだ沸き起こる言葉をノートに書き綴っております。
それじゃあもうそろそろ何でもいいから形にして写真を撮って
客観的に観察してみようと何回かやっています。
アートセラピーなるものなのか?
微細な震動は人に伝わるからそれが誰かの感動に変わりますようにと願います。
しかし、植物の美しさを表せるには、まだほど遠いい~。
でも明日もやります。
自分を噛み砕いて消化して循環できますように。
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